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天地人ゆかりの地に行ってみよう!−新潟県上越市編

御館跡 景虎について考える

天地人博会場

すっかりのどかな公園になってしまった御館跡です。

ここは天正六年(1578)、上杉謙信亡きあと、その家督を巡って起きた景虎と景勝の争い、「御館の乱」で景虎側の拠点となった場所です。 もとは関東官領であった上杉憲政(うえすぎのりまさ)が北条家との戦いに敗れ、長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃れた際、その居館として建設した建物で謙信の政庁としても使用されたそうです。

なぜ二人が争うことになってしまったのか、わたしもわかりませんでしたので、越後上越天地人博でゲットした上越市のパンフレットなどを参考にしながらちょっと二人の生い立ちについてお勉強をしました。

景勝・影虎 二人の生い立ち

上杉景勝
坂戸城主長尾政景の二男として弘治元年(1555)に生まれる。母は謙信の姉、仙桃院。永禄七年(1564)政景の急死によりその後、謙信の招きで春日山城に移り、謙信の養子となる。

上杉景虎
正確な生年不明。小田原城主・北条氏康の七男でもとは北条三郎と名乗る。永禄十二年(1569)に謙信と氏康により結ばれた越相同盟の人質として 、翌元亀元年(1570)謙信の養子となって春日山城に入る。謙信はいたく気に入り、長尾政景の娘を妻として与え、幼名「景虎」を与えられるなど厚遇される。

景虎は大人の事情で翻弄されるかわいそうな人生を送っていたんですね。謙信のもとでいったんは落ち着きますが、天正六年(1578)に謙信が亡くなるとその跡目争いのためさらに彼の人生の歯車が大きく狂い始めます。

そして戦いに〜御館の乱〜

景勝は春日山城本丸に、景虎は三の丸に立てこもりますが、景勝の攻撃を受け三の丸を退去。本拠を御館に移します。その後北条氏政(北条氏康の子。つまり景虎のお兄さん)に救援を求めますが、小田原〜越後の進軍ルートは景虎側についた北条高広・景広父子の活躍によりできていたものの やはり戦国時代。北条軍主力が別なところで交戦中で救援軍を派遣できませんでした。 そのため氏政は、北条家と同盟国の武田勝頼に助勢を要請。それに応え、武田家も2万もの大軍を信越国境付近まで進めます。また景虎は北条家と同盟を結んでいた蘆名、伊達にも援軍を要請。蘆名が越後に向かって兵を進めました。この時点では北条家というバックグラウンドを持つ景虎側が戦局を優位に展開していました。

しかしその戦局も徐々に景勝のほうに傾いていきます。

景勝は出兵してきた武田に対し、上杉領の一部割譲と黄金などで和議を申し入れ、締結に成功。後に武田は撤兵します。また北条家が越後に向けて出兵するも坂戸城に兵を集め守りを固めた景勝側を攻略できず、冬も近づいてきたことから樺沢城に一部兵を残し撤退します。

千載一遇の機会と思ったかどうかわかりませんが、景勝はここぞとばかりに御館に向け総攻撃を開始します。御館は落城してしまいますが、 景虎は何とか脱出。景虎側についた堀江宗親の鮫ケ尾城に入りますが、謀反にあい自害してしまうという悲しい結末を迎えるわけです。謙信が亡くなったのが天正六年三月、景虎が自害したのが天正七年三月。 わずか1年ばかりの間に起きた出来事でした。

それから400年以上経過した現在。跡地は公園となりました。小鳥がのどかな日常を謳歌するようにやさしい声でさえずり、きれいな桜が公園の周りを囲んでいました。 周辺は住宅街となり一歩大通りにでれば、車がせわしなく走っています。そんな日々を当たり前のように過ごしていますが、400年以上前の景虎には想像できなかったでしょう。

目を閉じれば、聞こえてくるような気がします。智謀知略を張り巡らした日々。誰を疑い、誰を信じればよいのかわからなくなった中での怒号、混乱、絶望、悲鳴。数奇な人生をたどった景虎に手を合せその場を後にしました。

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